終わらない争い
きのこ、たけのこ論争ってあるじゃないですか。
古来より幾多の戦いの火種となり、今日に至るまでに実に多くの血が流れた、あの論争です。
この話について言及するとなると、正直僕自身の身の安全も保障できないのですが…
駆け出しとはいえ、僕も表現者の端くれです。
権力に臆して、自分の書きたいことも書けない世の中なんて間違っている。
僕はそう思います。
さて、では簡単に、きのことたけのこの歴史についてさらっておきましょうか。
まず、言わずと知れた日本で最も古いきのこVSたけのこの争い。
そう、「大化の改新」ですね。
時の権力者、『きのこ派』の蘇我入鹿を、『たけのこ派』中臣鎌足、中大兄皇子が暗殺したことに端を発する、一連の改革です。
これまでにも、小さな部族間の小競り合いなどは見られていましたが、かの女王卑弥呼が宗派を明らかにしていないこともあり、大きな争いというのは見られませんでした。
(一部の歴史学者の間では、卑弥呼はきのこの山、たけのこの里を両方好んで食べていたのでは、と囁かれたりもしていますね)
大化の改新によって、日本は初めて、国家全体が『たけのこ派』として統一されます。
この時に発令された「たけのこの詔」は、あまりにも有名ですね。
争いは終わり、つかの間の平和が訪れたかに思えました。
しかしこれは、ほんの始まりに過ぎなかったのです。
宗派の異なる百姓による一揆など、争いは次第に加速していきます。
そうして迎える、戦国時代。
一時は、『きのこ派』織田信長が天下を握ったかのように思えましたが、家臣の明智光秀により暗殺されてしまいます。
無理やりにきのこの山を食べさせられた、「『里』帰り」という言葉を使ったら厳しく罰せられた、など
怨恨の溜まった結果、と伝わっていますね。
かの有名なセリフ
「敵は山にあり!!」
も、この時の明智の言葉と言われています。
戦国時代には、実に魅力的、個性的な武将が数多く登場しますね。
きのこの山の食べ過ぎによって失明した
「独眼竜」伊達政宗。
「三本のたけのこ」と、結束の強さ、大切さを説いた毛利元就。
きのこ派の上杉謙信が、敵である信玄にたけのこの里を贈った逸話は、
「敵にたけのこを贈る」
エピソードとして、とても有名になっています。
長らく続いた、戦乱の時代。
ですが、たけのこ派の徳川家康の天下統一により、一時の安寧を迎えます。
城下町には笑いが絶えず、子供から大人まで、たけのこの里をほおばる光景。
永遠に続くかに思えた平和。
しかしあの、日本史史上最も残酷と言われる時代の到来で、余は再び争いの炎に包まれます。
そう。
「明治時代」です。
この時代の悲劇は、きのこたけのこ論争が世界にまで飛び火してしまったことにあります。
ペリー来航を皮切りに、海外との交流が積極的になったこの時代。
「明治維新」の名のもとに、海外に明治のお菓子を売りつける動きが高まりました。
日本は時代が変わり、国を挙げて『きのこ派』と相成っていたのですが
中国、そしてロシアが、『たけのこの里』のしっとり感の虜となります。
その結果、日清戦争や日露戦争、その他数多くの悲劇を生むことになったのです。
ここから、大正、昭和と、日本は戦争の時代を迎えます。
「一億総きのこ」のスローガンのもと、対立する強国と戦い続けました。
しかし、日本は敗北します。
そして「ポツダム宣言」を受諾し、きのこもたけのこも分け隔てなく愛することを、世界に向けて誓ったのです。
以上が、みなさんが小学校でも習ったであろう、『きのこ』と『たけのこ』の歴史です。
きのこもたけのこも愛する。
口で言うのは簡単ですが、千年以上続いた争いの根を断ち切るのは、そうたやすいことではありません。
『きのこハラスメント』や、『たけのこいじめ』などは、令和となった今でも根づよい問題として残っています。
このブログを読んでいるみなさんも、おそらく表面上はリベラルであるように振舞うことでしょう。
しかしその実、家柄や宗教、育った環境などによって、多かれ少なかれ思想に偏りがあるのではないでしょうか。
みなさんは果たして一体……、
え、僕?
僕はもちろん、思想なんてありませんよ。
きのこもたけのこもおいしい。みんな平等。
それでいいじゃあありませんか。
(食べかけのたけのこの里を隠す)
さーて、アルフォートでも食べよっと。